ふたつの大きな出し物を終えて
もう夏には何もしない。
ずっと水面でぷかぷか浮いていた
「やりたい事の泡」が
ゆっくりと丸くなって
水の底に落ちていく。
すとんすとんと
綺麗な丸になって、しばらくそこで熟すのだ。
泡が「実になろう」と決まるのは
決意というより時期だ。
何もかもがわぁわぁ生まれる
騒がしい春が過ぎて
夕暮れが青くなる季節
六月はいろんなことが
静かに決まる月なのだ。
ふたつの大きな出し物を終えて
もう夏には何もしない。
ずっと水面でぷかぷか浮いていた
「やりたい事の泡」が
ゆっくりと丸くなって
水の底に落ちていく。
すとんすとんと
綺麗な丸になって、しばらくそこで熟すのだ。
泡が「実になろう」と決まるのは
決意というより時期だ。
何もかもがわぁわぁ生まれる
騒がしい春が過ぎて
夕暮れが青くなる季節
六月はいろんなことが
静かに決まる月なのだ。
走るときは
前を見ていないと
時々危ないわけなのだが
何かにぶつかったり
道を間違えたり
そういう類の失敗について。
しかしながら
ここ数ヶ月は
走りながら見ているのは前でも後ろでもなく
横でもなく
私自身のなかだ。
今走っている道と
私の中にあって
もやもやと
うねうねと
定まりのよろしくない
道のようなもの
ハイビスカスの花と
静かな海と
風に歌う椰子
そんなものを描くために
大きな筆を新調した。
来月はみつけに行こう。
にぎわいの家の蔵展示。
茶屋町のスロウデイ。
そこに割り込む沖縄のゲストハウス。
こんなことばかりしていたら
楽しすぎて破産しそうな予感、
今日
やることを選ぶべきという言葉をもらった
そうなんだろうなと
少し前からわたしも
どこかで気がついていた。
自分のなかで
少しでも「ん?」て感じたら
出しかけた一歩は
引っ込めてもいいのかもしれない
時間だけが
平等に24時間しかないとしたら
もっと描く時間をつくるべきなんだろな
半年前、今年こそ
腰をすえて描くことと向き合おうと
思っていたはずだったが
今まではかからなかった声があちこちから
そうなると
持ち前のもったいない精神稼働。
もったいない精神は
よくないよ。
捨てることこそ
誠意。
あらゆる意味で。
五月の準備をしつつ
六月のことを考え
四月の仕事が収まることに胃を痛める。
じゅうぶん
勤勉ではなかろうか。
緩急ない勤勉さだ。
家の中でくるくる時計が回っていく
時間が足りないことに
腹をたてるがその怒りに行き場はない。
気がついたら
桜は散ってる。
そんなことでいいのか
とにかく、
まったく気持ちが進まない。
ここ数年ひかなかった風邪を、
二月と四月に続けてひいた。
風邪を理由に
花冷えの雨の日にぬくぬくと眠る。
コップに溢れそうな水の底に膝をかかえて眠る。
目覚めたら、薄暗がりの部屋は時間もわからないからまた眠る。
魔法にかけられたように、眠っても眠っても眠る。
起きたら百年過ぎていそうなくらい眠る。
シチューの中のニンジンがとろとろ溶けそうなくらいに眠る。
目覚めたら、世界はきっと春なのだ。
ぴょんぴょん飛び跳ねる春なのだ。
「いつかしの月」という物語を舞台の上に乗せた。
歌とかたりの公演。そのことについてすこし書きたい。
額田王のファンタジーは、ほんとうはSFとして書いていて、
歌語りのメンバーとの話し合いで万葉をテーマにすると決まった時
額田で書くしかできないだろうと思ったことが
いつかしの月の発端。
SFからは離れて、わりと堅実な歴史ファンタジーに仕上がったのかなと思う。
歴史というのはその時の政治を背景にして出来上がってる。
時の政権の正統性を裏付けるために、色つけされながら
事実を記録したものが歴史の正体。
歴史というのは恐ろしく誘導性に満ちている。
いつかしの月は万葉集の中にしかほぼ存在しない
「額田王」という歌人の和歌から
ピンポイント的に想像していく私史観に他ならない。
物語の中に挿入される曲は
和からぶっ飛んだクラッシックなものが出来てきた。
それは、かなり私の意図通りでもあった。
打ち合わせを細かくしたわけではないのに、この絶妙なマッチはなんなんだと思った。
作曲家としての中橋怜子の才能にも驚いた。
背景には風の音、森の声、波しぶき、嵐と、自然音を多く使った。
その中でひとつこだわったのは鈴の音。
鈴というのは古代から魂と深く関連ついているアイテムで
鈴や鐘の内側に「風」が入って鳴る、というシステムを
祈りの場で使ったのだと思っている。
寺院では東西を問わず、鐘や鈴が「神」を呼ぶものとして在る。
イメージするのは「カタ」に「無形のスピリット」的なものが入って初めてモノになるのではないかという概念。
鈴という金属の型に風が入って魂を呼ぶ。
肉体に精神が入って人に成る。
そのシステムの象徴が「鈴」という思いつきを
主人公が言霊の巫女になる場面で背景に、
サブリミナルのように入れたかった。
マニアックなこだわりを実現してくれた大橋了久。
もうひとつの演出として「色」で舞台転換を表現する、
という考えがあり、其々の和歌に「色」を設定して
舞台上の書作品に色を重ねた。
色彩豊かであることが額田王の和歌の印象でもあった。
そして
舞台展示の書だけが、古典を忠実に表現することとなった。
これを書くために半年の間、古典と向かい合っていた書家くず上ともこがいる。
結局はこの書作品が大きな地盤となっていて、その上で自由に表現できていたのだと感じた公演になった。
物語を書いたものの性なのか、
自分自身は本に手を入れたいところが散見した舞台。
さらなる手直しと新しいことに向けて。
見に来ていただいて、本当にうれしい。
チケットは楽しみを約束するもの。それにお金を出してもらったことが重い。
裏切らなかったかと、思ったりする。(心配ではある)
しあわせ。
と不幸せ。
それを決めるのは自分だよと言えば、
それは諦めろとか、
高望みするなとか。
そう言うことなら違う。
しあわせは誰かにしてもらうものではなくて
自分が作り上げる城。